秋のコスモス

暑い夏が過ぎて、秋の青空に吸い込まれるような、青々です。

秋の花にコスモスがあります。

 あまり大きな花ではありませんが、あちらこちらで咲いています。

 

 通り過ごさずに、

 一度コスモスの花を

 この吸い込まれるような、青々とした秋の空に

 

 寝転がって見ては如何でしょうか?

 

 空に浮いた、綺麗な花が、秋風にゆられて素敵に

 私の心も救われてゆくような気がしました。

 

 コスモスの見方でも、こんなに変わるものです。

 

 他人を攻撃するよりも、見方を変えて見ると良いのかな

 

 皆様も見る位置を変えては如何でしょうか?

 愚痴・悪口等々

 一番先に聴くのは、自分の耳です

    これでは心は癒されません。

 私も自分に心して今を進めたいと思います。

言葉で周囲を励ます

 

 私も色々な場面で、つまずきながら何とか今の私です。

 

 来年は、オリンピックが東京で開催されると云うことで、

 各スポーツで競技が行われています。

 私は、小さいときから

  走る ボールを投げる

             大の苦手でした。

  秋は毎日のように運動会の練習で

   今でも悪夢を見るくらいの苦手でした。

 有る僧が、未来に向けて頑張っています。

 その僧に、『頑張って』と云いたいですが、

 

 私が小さいときの保母さんが

  「頑張ってるね」と声かけしてくれました。

 「頑張れ」と「頑張ってるね」とは違うように思います。

  頑張ってと云われても「自分なりに頑張ってるのに」

 みんなには、分かってもらえないだけです。

 「あなたは、頑張ってるね、素晴らしいね」と声かけして下さいね。

かたまり ほおふきあげる 芒かな 秋のひざしに 銀とかがやく

 

ススキは大きな蕪から沢山の茎を出し、ススキの穂が秋の風にゆれる

 

秋の日差しで、銀色に輝いているようです。

 

その空にトンボがすいすい、秋ですね

もう少しと、彼岸花の花も少し茎を延ばしてきました。

あと一週間で彼岸ですよと 

あるお寺のお墓詣り

日本の行事では、盆と正月でしょうが。

 お墓参りでは、「彼岸」でしょう

 春と秋の彼岸には、多くの方がお墓詣りされます。

 

 花かれて なお咲く花の あわれさに

     また とりあげて 水あたえけり

 

ある専門僧堂の墓地の入口に掲示された詩だそうです。

 

 花が枯れそうで かわいそう 冷たい水をあげましょう。

 

 お寺の優しい心が伝わります。

 つまずいて しおれそうに成った人にも

 あなたに にあった やさしい 気持ちをあげますよ。

 

 今日も暑い日ですが、少しでも周囲にやさしさが出来る

  そんな私でありますよう願いながら 進めたいと思います。

 

  皆様にもそうあれと仏様は願われます。

     イルカさんの「風にのせて」を口ずさみながら

   今日も施設の入所の方々と共に

 

目がさめる

お経とゆうものは、読み方のこちらの頭脳が充分に煩瑣で整理出来ませんと。

そのお経がいったい何を云っておられるのか?

中々気付く事ができません。

10年も、20年もあるいは、

私のように70歳こえてから、やっと気付かせてつつ有ります。

 

釈尊の「菩提樹下の思惟」のことは、

 ウダーナ(Udana)と云う教典に記載されているようです。

 

 「自説経」と訳され、南方仏教所伝の教典で有り、

今後少し時間をかけて、お伝え出来ればと思います。

          暑いので少しユッタリと進めてまいります。

 

 

 

修行の現場

私も45年くらい前に、福井県大本山永平寺で修行をいていました。

 

今は怠けて、修行からは遠く離れています。

先般 ある修行道場の朝を境内で、鐘や太鼓等が鳴るのを聴いていますと

今何をしてる

あの音がすると、どうしてると外で聴いていましてもわかるものです。

 

作務太鼓が鳴りました。

堂内を一斉に掃除をしなさいよと

 

しばらくして 本堂の脇に近づくと若い修業僧が

一生懸命に掃除している姿は

美しい者です

大きな堂内で修行する

若い僧は、色が白く

動物性タンパクを食べないから

すきとーた肌で

一生懸命の姿に感銘していました。

人は『結果を喜ぶ人』と行為を喜ぶ人』のふたつがあるように思います。

結果というものは、どうなるかわからないのです。

結果よりも、掃除するとゆう行為を喜ぶ事が大切です。

そうすれば何事も楽しく行えるのでは

楽しく行う行為は、ほとんど失敗無く、良い結果へと

流れゆくような思いがします。

 

 はつらすとして 大きな声で「ご苦労様」と

 

 だだ本堂廊下を歩いている私に

 

 そうか歩ける事は、たくさんの御縁と支えで「ご苦労様で」なのです。

道を求める

岡山に国仙和尚と云われる禅僧が、江戸末期にいた。

その時代は、喰うための僧が集まる修行道場で

道を求める者は少ない中、その寺に

まっすぐに ほとばしるほどの佛道心の持ち主がいた。

 

その者は、自分とは何か?

     自分の生涯は何なのか?

     何のために自分は生きているのか?

たえず、自分の生き方に問いかけていた。

 

世間では、自分を目立たせよう

     才能をひけらかす

     

中国の老子

  『みずから正しいとする者は、かえってその正しさを認められない。』

その僧を「良寬」と云う

 ひけらかし・目立ちたがったり・自分を顕示する事を嫌った。

良寬は完全なる無為

 

 國仙和尚が良寬を「印可」した時の偈

   『良ヤ愚ノ如クシテ、道転寬シ』

   (りょうやぐのごとくして、みちうたたひろし)

 愚かであることが、仏の道に通じている。

  

  私もこう有りたいと思いますが、中々自分を無為になりきる事ができません。

   少しの時をこうありたいと想うのです。

 

    愚かなる我もしきりに愚痴るなり 

     あれやこれやと 他をののしりて    魯堂々