道を求める
岡山に国仙和尚と云われる禅僧が、江戸末期にいた。
その時代は、喰うための僧が集まる修行道場で
道を求める者は少ない中、その寺に
まっすぐに ほとばしるほどの佛道心の持ち主がいた。
その者は、自分とは何か?
自分の生涯は何なのか?
何のために自分は生きているのか?
たえず、自分の生き方に問いかけていた。
世間では、自分を目立たせよう
才能をひけらかす
中国の老子は
『みずから正しいとする者は、かえってその正しさを認められない。』
その僧を「良寬」と云う
ひけらかし・目立ちたがったり・自分を顕示する事を嫌った。
良寬は完全なる無為
國仙和尚が良寬を「印可」した時の偈
『良ヤ愚ノ如クシテ、道転寬シ』
(りょうやぐのごとくして、みちうたたひろし)
愚かであることが、仏の道に通じている。
私もこう有りたいと思いますが、中々自分を無為になりきる事ができません。
少しの時をこうありたいと想うのです。
愚かなる我もしきりに愚痴るなり
あれやこれやと 他をののしりて 魯堂々